「松阪から四季 納豆の如く」 納豆職人 奥野 敦哉 |
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「第二十章 前社長3回忌を終えて1」
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今回もエッセイを続けさせていただきます。前社長=私の父ですが、他界するまで社長であったわけで、次に私が社長を継いだわけですから、1月9日に父の3回忌を終えたということで私の社長生活のひとつの通過点だったのかなと考えます。 また、連載も20回となるので、ここまでの私の状況をすこし振り返ってみるのもよいかなとも思えます。納豆の話題とは離れますがしばしお付き合いを・・・。 |
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私にとって勉強は小学生の頃からずっと義務感だけで行ってきました。宿題・授業・塾、全てが"しなくてはいけないから"していたのです。誰のためにという意識も自分のためにということもなく、誰に命令されたからということでもありません。今でただ表現するならば「すること=ノルマだから」ということでしょうか。ですので、学校の授業中に私が眠らず起きて先生の言葉を聞いていれば、その出題範囲の設問はテスト用紙にマルとなり、居眠りして聞いていない場所は白紙となっていました。そんな私に父も当時はだいぶ不安に思っていたことでしょう、よく「敦哉、口を閉めろ」と注意されました。それは「無駄口が多いから黙れ」ではなく「ボーとして口を半開きにするな、シャンとせい!」という意味です。 小学生レベルではそのような私でもテストで高得点は取れたのですが(そんな意識状態でしたので目立たない地味な生徒として通信簿は普通より少し良いという程度でしたが)、高校にまで進んでしまうと、状況に磨きがかかってしまい、無遅刻無欠席で全ての授業に出ている中で、期末試験があると、興味のある社会の歴史や国語現代文ではクラス首位の点数を取り、物理や数学では最下位となったりしていました。小学生の時の算数や理科ではそれでも居眠りを止めることが出来たのですが授業内容が高度になるにつれ、先生の声が丁度良いBGMとなり、深く眠れました。授業中に・・・。 |
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その私が浪人になり、アパートから電車を乗り継ぎ予備校へ通う生活を送るようになり、受験勉強に染まっていきました。予備校はカリキュラムを自分で組むことができました。つまり、同じ科目でも色々な講師を選べる=講義内容を考えることができるということです。同じ講義箇所でも講師の個性により教え方や解答方法に違いがあり、日をズラして違う講師のいくつかの講義にまぎれこむことも行いました。刺激的で一年間というたっぷりの時間で科目内容の流れ方や設問仕組みのカラクリなど、入学試験に立ち向かえる実践的なワザを吸収することができました。 |
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講義時間の半分を自分の体験・考え方・日々の暮らしの着目点などよもやま噺をおこなう講師、カリスマ性を持った方が多かったのは新鮮でした。「物事のポイント」つまり、その回の講義で本当に重要な身に付けなければならないことというのは実はそれほど多くなく、生徒の持つ集中力にも限度があるということだと思います。講師は人生の瀬戸際を初めて味わっているであろう浪人に向けて、心をケアし、効率よく受験戦争を制する戦略をプロフェッショナルとして技術を磨いていたのでしょう。また、高校の先生の名誉の為に考えますと、浪人にとっての予備校は恐らく「受験に特化できること」つまりすでに高校時代にそれとなしに基礎を一通り学んでいるから応用版へ無理なく上げることが出来るということ、やはり2回目の再挑戦であるということにつきるのではないでしょうか。高校の授業あってこその比較論・確認論なのでしょう。まぁ、高校でほとんど寝ていて、弁当を食べるのが最重要目的だった私が言うことではないでしょうが。 |
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※ 大東文化大学 駅伝とラグビーの強豪校として有名。所在地は東京板橋区の「板橋キャンパス」と埼玉県東松山市の「東松山キャンパス」がある。何の疑問も持たず西洋化にただひた走る日本を憂えて自国の文化、そしてアジア文化のたしなみを根底として西洋文化を理解し吸収していくことを校風に「東西文化の融合」を建学の精神として現在に至っている。イメージカラーは「モスグリーン」。 |